榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ) 粛宗最愛の王子を産んだ後宮
榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ:명빈박씨)
正直、かなりマイナーな後宮です。
英祖を生んだトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)でさえマイナーな後宮だったので、ことさらなのがわかると思います。
彼女は一体どんな女性だったのでしょうか?
一説には、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)の内人(ナイン)で1683年から寵愛を受けたと言われています。
張氏は1680.10.26以降から寵愛を受け始めましたが、1680年10月から1681年3月の間のどこかで、粛宗の母・明聖王后により宮廷から追い出されてしまいます。
再入宮するのは1686年ですので、鬼のいぬ間に?寵愛を受けたのではないかと言われています。
もう一説だと1689年前後と言われています。
コチラの説にはより信ぴょう性があって、彼女が身ごもった時の粛宗の感想として、「出会って10年余り」と記録を残しているからです。
彼女は10年余りの間、承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)として、宮廷のどこかでひっそりと佇んでいたのでした。
最初の説についても、パワーバランスを重視する粛宗のことですので、南人系の張氏に変わる女を囲うことにより、後宮での西人と南人のパワーの均衡を図ったとも言えます。
1689年というと、ちょうど己巳換局(キサファングク:기사환국)で朝廷が混沌としていた頃です。
また、トンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)が承恩尚宮となったのは1692.4.22以降なので、実は朴氏のほうが古参なのです。
タイミングさえ良ければ、彼女が王の母となっていたかも知れません。
その後の彼女を時系列で見ていきましょう。
1698.11.14 承恩後10年にして初めて懐妊し従四品淑媛(スグォン:숙원)となる
1699.6.13 粛宗の6男・王子昍(훤:フォン)のちの延齢君(ヨルリョングン:연령군)を生む
1699.10.23 従二品(チョンイプム:종2품) 淑儀(スグィ:숙의)となる
1702 正一品榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)となる
1703.7.15 榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ:명빈박씨)死去
王子を産み、嬪(ピン:빈)にまでなったのもつかの間、わずか5歳の王子を残して亡くなります。
多くの記録を見ても、彼女の産んだ延齢君(ヨルリョングン:연령군)を、粛宗はことさらにかわいがったことがわかっています。
淑嬪崔氏の生んだ延礽君(ヨニングン:연잉군)ではないことに、トンイファンは微妙な嫉妬心を抱くかも知れませんが、朝鮮ではもともと末っ子を可愛がる傾向にあるうえ、幼くして母をなくしているため、粛宗の父性がことさらに働いたのでしょう。
また、延礽君(ヨニングン)も5つ歳の離れた弟をとても可愛がったようで、父子ともに末っ子を可愛がらずにはいられなかったというのが真相のようです。
1719年、若くして延齢君(ヨルリョングン:연령군)は死去します。享年21歳。
粛宗が崩御する1年前の逆縁でした。
正直、かなりマイナーな後宮です。
英祖を生んだトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)でさえマイナーな後宮だったので、ことさらなのがわかると思います。
彼女は一体どんな女性だったのでしょうか?
一説には、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)の内人(ナイン)で1683年から寵愛を受けたと言われています。
張氏は1680.10.26以降から寵愛を受け始めましたが、1680年10月から1681年3月の間のどこかで、粛宗の母・明聖王后により宮廷から追い出されてしまいます。
再入宮するのは1686年ですので、鬼のいぬ間に?寵愛を受けたのではないかと言われています。
もう一説だと1689年前後と言われています。
コチラの説にはより信ぴょう性があって、彼女が身ごもった時の粛宗の感想として、「出会って10年余り」と記録を残しているからです。
彼女は10年余りの間、承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)として、宮廷のどこかでひっそりと佇んでいたのでした。
最初の説についても、パワーバランスを重視する粛宗のことですので、南人系の張氏に変わる女を囲うことにより、後宮での西人と南人のパワーの均衡を図ったとも言えます。
1689年というと、ちょうど己巳換局(キサファングク:기사환국)で朝廷が混沌としていた頃です。
また、トンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)が承恩尚宮となったのは1692.4.22以降なので、実は朴氏のほうが古参なのです。
タイミングさえ良ければ、彼女が王の母となっていたかも知れません。
その後の彼女を時系列で見ていきましょう。
1698.11.14 承恩後10年にして初めて懐妊し従四品淑媛(スグォン:숙원)となる
1699.6.13 粛宗の6男・王子昍(훤:フォン)のちの延齢君(ヨルリョングン:연령군)を生む
1699.10.23 従二品(チョンイプム:종2품) 淑儀(スグィ:숙의)となる
1702 正一品榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)となる
1703.7.15 榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ:명빈박씨)死去
王子を産み、嬪(ピン:빈)にまでなったのもつかの間、わずか5歳の王子を残して亡くなります。
多くの記録を見ても、彼女の産んだ延齢君(ヨルリョングン:연령군)を、粛宗はことさらにかわいがったことがわかっています。
淑嬪崔氏の生んだ延礽君(ヨニングン:연잉군)ではないことに、トンイファンは微妙な嫉妬心を抱くかも知れませんが、朝鮮ではもともと末っ子を可愛がる傾向にあるうえ、幼くして母をなくしているため、粛宗の父性がことさらに働いたのでしょう。
また、延礽君(ヨニングン)も5つ歳の離れた弟をとても可愛がったようで、父子ともに末っ子を可愛がらずにはいられなかったというのが真相のようです。
1719年、若くして延齢君(ヨルリョングン:연령군)は死去します。享年21歳。
粛宗が崩御する1年前の逆縁でした。