昌徳宮(チャンドックン)
昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)
トンイの舞台にもなっている朝鮮王朝の王宮で、最も長い間朝鮮王朝の本宮だったところです。
5つある王宮のうち、唯一世界遺産になっています。
昌徳宮とはどんなところだったのでしょうか?
その前に押さえておきたいのが景福宮(キョンボックン:경복궁)です。
ここは、1392年に朝鮮王朝を建国した太祖・李成桂(イ・ソンゲ:이성계)が1395年9月に建造した宮殿です。長らく本宮とされていましたが、第14代ソンジョの御代の1592年に、俗にいう秀吉の朝鮮出兵の壬辰倭乱(イムジンウェラン:임진왜란)の際に、民衆を捨て北へ逃げた王に憤怒して、民衆により焼き討ちされました。
景福宮はその後再建されず、1865年に朝鮮王朝としては最後の王・第26代高宗(コジョン:고종)により、274年ぶりに再建されはじめました。
ですので、景福宮がなかった時代には本宮は昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)なのです。
もっとも、昌徳宮も焼失の憂き目にあったのですが、再建されました。
昌徳宮はそもそも、離宮として第2代太宗(テジョン:태종)により建設が進められ、1405(太宗5)にひとまず完成し、その後も整備が進められました。
建設当初の目的は王の憩いの場です。そのため殿の後には、緑に囲まれた禁苑(クムウォン:금원)や秘苑(ピウォン:비원)と呼ばれる小高い丘があるのです。言ってみれば日本の天皇家の御用邸のようなものともいえます。
しばらくは使われていませんでしたが、第7代世祖(セジョ:세조)の即位が行われたり、第9代成宗(ソンジョン:성종)や第10代燕山君(ヨンサングン:연산군)は頻繁に使用しました。
まずは俯瞰した地図で見てみましょう。(クリックすると拡大します)

5つの宮殿のうち、大きいものは景福宮・昌徳宮・慶煕宮(キョンヒグン:경희궁)の3つです。中央の景福宮に対して、東の昌徳宮は東闕(トングォル:동궐)、西の慶煕宮は西闕(ソグォル:서궐)とも呼ばれます。
では、具体的に昌徳宮の様子を見てみましょう。(クリックすると拡大します)

まず、入り口は南向きの敦化門(トンファムン:돈화문)です。門をくぐり少し直進し右折すると禁川にかかる石橋錦川橋(クムチョンギョ:금천교)があります。NHKのもっと楽しむ!「トンイ」でも紹介されていましたね!
橋を渡ると進善門(チンソンムン:진선문)があり、そこをくぐり少し直進すると左側に仁政門(インジョンムン:인정문)があります。そこをくぐると行廊(ヘンラン:행랑)に囲まれた大きな庭があり、その正面には正殿の文字色仁政殿(インジョンジョン:인정문전)があります。
なぜここまで詳細に記したかおわかりになりますか?
このルートは第31話でトンイが通ったルートなのです。
籠がが到着し、粛宗(スクチョン:숙종)からもらった唐鞋が、最初に踏んだ場所が、まさに仁政殿(インジョンジョン)の前庭だったのです!
仁政殿の東(右)にあるのは便殿の宣政殿(ソンジョンジョン)そこからさらに東からが王や後宮の居住地となります。
王の住居である熙政堂(ヒジョンダン:희정당)、その裏手に中殿の住む大造殿(テジョジョン:대조전)があります。
詳しく記述するとキリがないのでもう少しだけ。
画像では下側の方、昌徳宮の塀を越えた昌慶宮側に、悪の巣窟?禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)の住まうあの就善堂(チュイソンダン:취선당)がありまました。現在は消失しているのですが、実は放火が原因でした。
その嫌疑がかけられたのが、トンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の孫に当たる思悼世子(サドセジャ:사도세자)です。
トンイの子・英祖(ヨンジョ:영조)は度重なる奇行と、西人(ソイン)から派生した老論(ノロン)による圧力で、ついには彼を米びつに閉じ込め死に至らしめるのですが、ひょっとすると、禧嬪張氏のタタリだったのかも知れませんね!
トンイの舞台にもなっている朝鮮王朝の王宮で、最も長い間朝鮮王朝の本宮だったところです。
5つある王宮のうち、唯一世界遺産になっています。
昌徳宮とはどんなところだったのでしょうか?
その前に押さえておきたいのが景福宮(キョンボックン:경복궁)です。
ここは、1392年に朝鮮王朝を建国した太祖・李成桂(イ・ソンゲ:이성계)が1395年9月に建造した宮殿です。長らく本宮とされていましたが、第14代ソンジョの御代の1592年に、俗にいう秀吉の朝鮮出兵の壬辰倭乱(イムジンウェラン:임진왜란)の際に、民衆を捨て北へ逃げた王に憤怒して、民衆により焼き討ちされました。
景福宮はその後再建されず、1865年に朝鮮王朝としては最後の王・第26代高宗(コジョン:고종)により、274年ぶりに再建されはじめました。
ですので、景福宮がなかった時代には本宮は昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)なのです。
もっとも、昌徳宮も焼失の憂き目にあったのですが、再建されました。
昌徳宮はそもそも、離宮として第2代太宗(テジョン:태종)により建設が進められ、1405(太宗5)にひとまず完成し、その後も整備が進められました。
建設当初の目的は王の憩いの場です。そのため殿の後には、緑に囲まれた禁苑(クムウォン:금원)や秘苑(ピウォン:비원)と呼ばれる小高い丘があるのです。言ってみれば日本の天皇家の御用邸のようなものともいえます。
しばらくは使われていませんでしたが、第7代世祖(セジョ:세조)の即位が行われたり、第9代成宗(ソンジョン:성종)や第10代燕山君(ヨンサングン:연산군)は頻繁に使用しました。
まずは俯瞰した地図で見てみましょう。(クリックすると拡大します)

5つの宮殿のうち、大きいものは景福宮・昌徳宮・慶煕宮(キョンヒグン:경희궁)の3つです。中央の景福宮に対して、東の昌徳宮は東闕(トングォル:동궐)、西の慶煕宮は西闕(ソグォル:서궐)とも呼ばれます。
では、具体的に昌徳宮の様子を見てみましょう。(クリックすると拡大します)

まず、入り口は南向きの敦化門(トンファムン:돈화문)です。門をくぐり少し直進し右折すると禁川にかかる石橋錦川橋(クムチョンギョ:금천교)があります。NHKのもっと楽しむ!「トンイ」でも紹介されていましたね!
橋を渡ると進善門(チンソンムン:진선문)があり、そこをくぐり少し直進すると左側に仁政門(インジョンムン:인정문)があります。そこをくぐると行廊(ヘンラン:행랑)に囲まれた大きな庭があり、その正面には正殿の文字色仁政殿(インジョンジョン:인정문전)があります。
なぜここまで詳細に記したかおわかりになりますか?
このルートは第31話でトンイが通ったルートなのです。
籠がが到着し、粛宗(スクチョン:숙종)からもらった唐鞋が、最初に踏んだ場所が、まさに仁政殿(インジョンジョン)の前庭だったのです!
仁政殿の東(右)にあるのは便殿の宣政殿(ソンジョンジョン)そこからさらに東からが王や後宮の居住地となります。
王の住居である熙政堂(ヒジョンダン:희정당)、その裏手に中殿の住む大造殿(テジョジョン:대조전)があります。
詳しく記述するとキリがないのでもう少しだけ。
画像では下側の方、昌徳宮の塀を越えた昌慶宮側に、悪の巣窟?禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)の住まうあの就善堂(チュイソンダン:취선당)がありまました。現在は消失しているのですが、実は放火が原因でした。
その嫌疑がかけられたのが、トンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の孫に当たる思悼世子(サドセジャ:사도세자)です。
トンイの子・英祖(ヨンジョ:영조)は度重なる奇行と、西人(ソイン)から派生した老論(ノロン)による圧力で、ついには彼を米びつに閉じ込め死に至らしめるのですが、ひょっとすると、禧嬪張氏のタタリだったのかも知れませんね!