粛宗の子供たちと朝鮮の少子化問題
トンイ考を記述する際に、いつも参考にしているのが、韓国の歴史学者キム・ジョンソン先生のレポートです。
俗説に惑わされず的確な分析をされているので、とても参考になります。
(日本が絡むと?という記述になることもありますが:笑)
先月か先々月だったか、数年前に発表した先生のレポートが朝鮮日報に掲載されていましたので、特に粛宗(スクチョン:숙종)にスポットライトを当てて紹介したいと思います。

朝鮮時代に応じの出生数。縦:人数、横:朝鮮王が第何代かを表しています。
一目瞭然で前期にはとても王子が多く、後期になると少子化問題を抱えています。
一番多いのはハングルを創製した第4代世宗(セジョン:세종)です。
おもしろいのは第2代定宗(チョンジョン:정종)。彼は弟で第3代太宗(テジョン:태종)の傀儡だったのに王子を量産しています。王統の維持という点ではあまり意味のないことでした。
第9代成宗(ソンジョン:성종)は廃妃尹氏(ペビユンシ)の夫で、2人の子が悪名高き第10代燕山君(ヨンサングン:연산군)です。
16人も王子がいるので、はなから違う王子を王にすればよかったのでしょうが、そうはいかないのが歴史なのでしょうね。
その後は、第14代宣祖(ソンジョン:선조)・第16代 仁祖(インジョ:인조)とダメな王の時に王子が多いというのもおかしなところです。
さて、我らが粛宗(スクチョン:숙종)はというと、6人の王子を設けています。第19代ですので、赤線のところです。
ここで注視したいところは、祖父の第17代孝宗(ヒョジョン:효종)と第18代顕宗(ヒョンジョン:현종)のところです。
直系の王統が途絶えるかも知れない一人っ子ならぬ一人王子しか設けませんでした。
子供の死亡率が高かった当時としては、まさに綱渡りです。
実際、粛宗は6男2女を設けていますが、王統を引き継いだ第20代景宗(キョンジョン:경종)と第21代英祖(ヨンジョ:영조)以外は若くして夭折しています。
この祖父・父の代の少子化問題があった上、粛宗も長い間王子に恵まれなかったため、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)が王子を産んだ時の功が、朝鮮式に言うと天よりも地よりも大きかったのです。
ドラマ・トンイではこのことは周知の事実として端折っている感がありますが、宮女上がりの張氏が中殿(チュンジョン:중전)にまでのし上がれたのには、3代続いた王統の綱渡りがあったからというのも大きな一因です。
そして、我らがトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)がこの綱渡りに終止符を打ちます。
第21代英祖(ヨンジョ:영조)がトンイの子というのは歴史的事実ですが、実は彼女は3人の王子を生んでいます。残念ながら2人は夭折していますが、英祖は朝鮮王朝の最長在位53年を誇るほど、とても丈夫で長生きをしました。
のちの景宗だけでは心もとなかったところに、のちの英祖を産み、綱渡りから開放してくれたトンイ。
王子出産数も最高であり、寵愛を受けていたことがわかります。
ちなみに、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)は2人、榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ:명빈박씨)は6男で末っ子の延齢君(ヨンニョングン:연령군)の1人を生んでいます。
結局のところ、粛宗の代で一時的に王子の出生数が増えたものの、その後はフェイドアウトするかのように少なくなり、傍系から王を迎えなければなりませんでした。
第26代高宗(コジョン:고종)の代には、すでに国の存亡さえ危うい状況だったため、王子の出生数が増えることに大した意味はありませんでした。
このように王子の出生数は、王朝の存亡と密接にリンクした、国家の最重要事項でした。
俗説に惑わされず的確な分析をされているので、とても参考になります。
(日本が絡むと?という記述になることもありますが:笑)
先月か先々月だったか、数年前に発表した先生のレポートが朝鮮日報に掲載されていましたので、特に粛宗(スクチョン:숙종)にスポットライトを当てて紹介したいと思います。

朝鮮時代に応じの出生数。縦:人数、横:朝鮮王が第何代かを表しています。
一目瞭然で前期にはとても王子が多く、後期になると少子化問題を抱えています。
一番多いのはハングルを創製した第4代世宗(セジョン:세종)です。
おもしろいのは第2代定宗(チョンジョン:정종)。彼は弟で第3代太宗(テジョン:태종)の傀儡だったのに王子を量産しています。王統の維持という点ではあまり意味のないことでした。
第9代成宗(ソンジョン:성종)は廃妃尹氏(ペビユンシ)の夫で、2人の子が悪名高き第10代燕山君(ヨンサングン:연산군)です。
16人も王子がいるので、はなから違う王子を王にすればよかったのでしょうが、そうはいかないのが歴史なのでしょうね。
その後は、第14代宣祖(ソンジョン:선조)・第16代 仁祖(インジョ:인조)とダメな王の時に王子が多いというのもおかしなところです。
さて、我らが粛宗(スクチョン:숙종)はというと、6人の王子を設けています。第19代ですので、赤線のところです。
ここで注視したいところは、祖父の第17代孝宗(ヒョジョン:효종)と第18代顕宗(ヒョンジョン:현종)のところです。
直系の王統が途絶えるかも知れない一人っ子ならぬ一人王子しか設けませんでした。
子供の死亡率が高かった当時としては、まさに綱渡りです。
実際、粛宗は6男2女を設けていますが、王統を引き継いだ第20代景宗(キョンジョン:경종)と第21代英祖(ヨンジョ:영조)以外は若くして夭折しています。
この祖父・父の代の少子化問題があった上、粛宗も長い間王子に恵まれなかったため、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)が王子を産んだ時の功が、朝鮮式に言うと天よりも地よりも大きかったのです。
ドラマ・トンイではこのことは周知の事実として端折っている感がありますが、宮女上がりの張氏が中殿(チュンジョン:중전)にまでのし上がれたのには、3代続いた王統の綱渡りがあったからというのも大きな一因です。
そして、我らがトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)がこの綱渡りに終止符を打ちます。
第21代英祖(ヨンジョ:영조)がトンイの子というのは歴史的事実ですが、実は彼女は3人の王子を生んでいます。残念ながら2人は夭折していますが、英祖は朝鮮王朝の最長在位53年を誇るほど、とても丈夫で長生きをしました。
のちの景宗だけでは心もとなかったところに、のちの英祖を産み、綱渡りから開放してくれたトンイ。
王子出産数も最高であり、寵愛を受けていたことがわかります。
ちなみに、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)は2人、榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ:명빈박씨)は6男で末っ子の延齢君(ヨンニョングン:연령군)の1人を生んでいます。
結局のところ、粛宗の代で一時的に王子の出生数が増えたものの、その後はフェイドアウトするかのように少なくなり、傍系から王を迎えなければなりませんでした。
第26代高宗(コジョン:고종)の代には、すでに国の存亡さえ危うい状況だったため、王子の出生数が増えることに大した意味はありませんでした。
このように王子の出生数は、王朝の存亡と密接にリンクした、国家の最重要事項でした。